奄美大島は鹿児島より南西450km、面積819km2(属島を含む)、リアス式海岸の周囲は596km、年平均気温21℃、雨量3200mm、日本では沖縄、佐渡に次いで三番目に大きな島である。琉球列島は九州の南端から台湾の東北端に至る800kmの間に百以上の島で形成され、屋久島からトカラ列島が北琉球、奄美諸島から大東諸島を含めて沖縄諸島が中琉球、宮古島から与那国島が南琉球と大きく分けられている。明治時代、渡瀬庄三郎博士は屋久島と奄美大島の間に生物地理上のライン(渡瀬ライン)を引き、このラインを境として動植物相が大きく異なるとした。地殻の変動で各々の島に取り残された奄美大島以南の動植物は独自の進化をとげ、この辺り一帯は東洋のガラパゴスといわれている。
植物では固有種14(変種5)、他の島との共通固有種17(変種8)が確認されている。琉球最大の島、沖縄島では固有種、共通固有種合わせて19種で大島には及ばない。これは面積では沖縄(1185km2)の方が、大島本島(709km2)より広いが、標高は沖縄で与那覇岳の498m、大島で湯湾岳の694mと大島の方が200m程高く、したがって垂直植物分布は、奄美が豊かで植物の種類が多いと考えられる。関ヶ原の戦い(慶長五年)が東軍の勝利に終わり、天下を我が物にした徳川家康は薩摩の島津に、慶長十四年(一六〇九年)に琉球征伐を命じた。この理由については当時琉球王朝は明国とも主従の関係を結んでおり、日本にはその関係を極力隠していたが、家康は明国が琉球王朝の後楯にあることを充分承知していたのである。しかし、明国が内乱により弱体化して到底琉球までバックアップする能力がなくなったのを見定めてからの命令であった。難くせをつけた薩摩は首里を制圧し、和平の条件として与論島から北の島々を強引に割譲させ自国領とした。このため廃藩置県後も鹿児島県となっているわけである。
砂糖地獄
慶長十五年(一六一〇年)、大和浜の直川智が中国から持ち帰った砂糖黍で、大島で初めて黒糖百斤を作るのに成功した。彼は沖縄に行く途中、嵐に遭って中国の福建省に流され、そこで製造されている精糖法を習い憶え、帰国の際にひそかに苗を持ち帰り、金久西浜原に植えたのであった。当時、多額の負債で苦しんでいた薩摩はこれに目をつけ、元禄八年(一六九五年)には黍検者を置いて生産を強制し、年貢米の代わりに砂糖を納めさせる換糖上納令を公布し、田はすべてサトウキビ畑に転作された。そのため一旦凶作になると多数の餓死者が出た。当時砂糖一斤(600g)が米三合六勺の比率であったが、天保年間になると砂糖を島民が隠し持つことは許されず、総てがお上の管理下に置かれたのであった。天保十年(一八三九年)には貨幣の通融を禁止し搾取体制を一層強化していったのである。
この頃、島での交換比率は一斤で米一合九勺であった。これを大坂に持っていくと米一升二合の値で売れ、経費を差し引いても四倍の儲けになり、天保年間の収入は二百三十五万両、これを米に換算すると百万石に相当した。徹底した島津の植民地政策は豊富な財政を生み、薩摩対英国(薩英戦争)、明治維新の大原動力になったのである。この裏で刈り株が高いといってムチで打たれたり、糖汁をなめた子供がひどい刑罰に処されたり、民は家もなく朝夕の食に悩み、磯のモズクやソテツを食すなど、いわゆる砂糖地獄があった。
一九九五年七月六日、午前十時奄美大島空港着。東京羽田から二時間十五分。昨年(一九九四年)から直行便が運行され非常に楽になった。以前は東京~鹿児島約一時間四十五分、鹿児島乗り換えでYS11のプロペラ機で約一時間、待ち時間などを入れると半日かかったものである。早く着くのも結構だが反面、噴煙の上がる桜島の義々たる姿を横に見て、海上アルプスの屋久島、点在するトカラ列島を上空から見おろす絶景を失ったのは残念である。ジェット機では高度が高すぎて(8000から10000m)、島影も地図を見るがごとくで味も塩気もない。奄美は五年ぶりで久々の訪島だが、今回は恐らく三十数回目になるかもしれない。
十六年程前、初めてこの島に来て豊かな緑、手つかずの原生林、コバルトブルーの海に魅せられ、年三回の割合で来た時期もあった。空港にはわれわれの到着を出迎えてくれる江崎氏(コーラル観葉園)と浜田氏(興島園)の姿があった。両氏はその頃からの知り合いで、島では観葉物の生産を業として大都市に出荷している。
今回は総勢二十三名の大部隊。マイクロバス二台、乗用車二台で先ず浜田さんの農園を見学。彼の本業は土建屋で、新空港や道路建設などいわゆる公共事業を手がけ、北部笠利地区では名士の一人である。彼が観葉鉢物を生産することになったきっかけは、地方選挙で自分が応援する候補者が落選した時、市や県の工事入札にも声がかからず、当選した人物の任期中の四年間は半端な仕事しか回って来ず、あるいは仕事を干されて生活や会社経営が成り立たなくなり、それをフォローするためだったという。それにしても奄美大島は、全国でも名高い選挙トバクが行なわれ、選挙期間中は大都市から暴力団も渡来するとか、候補者の異なる応援はたとえ親戚や親子でも断絶に追い込まれるという。まあ前時代的、地方選挙狂想曲といってしまえばそれまでだが、自分の生活の総てが関わってくるので、期間中には時々の闇夜の一人歩きも危険ということになるのかもしれない。
ご自宅近くの事務所で一服、今日のスケジュールを検討し、興島園の最終仕上げハウスを見る。鉢上げされたインドゴムノキ、ドラセナ・コンシンナ、ブラッサイア、ヒロバドラセナ(コルディリネ・テルミナリス)、コルディリネ・ストリクタなどが整然とハウスに管理されている。出荷場はこれらの鉢物が剪定され梱包される作業の段階にある。生産部長の高司さんは訓練校卒業者で、東京N園に長く勤務、退職後帰郷の際筆者に奄美の就職先を相談に来られ、その仕事ぶりを買われ、現在ここの部長をまかされているのである。
興島園はソテツ、オオハマボウ、ゲッキツなどの大物、つまり植物園植栽用などを含めて内地への年間出荷量はおよそ60コンテナ、尺鉢換算で約7000鉢である。その他、現地、公園樹街路樹などの生産もある。原木農場は約六町歩あり、実生苗木から製品まで一貫生産をしている。
世界の砂糖事情
笠利地区は平地が多く、耕地のほとんどでサトウキビ栽培が行なわれている。サトウキビ(Saccharum officinarum)はニューギニアが原生地といわれる。インドからインドシナ原生種(S. barberi)、中国南部から沖縄に分布するもの(S. sinense)など12種があり、イネ科の宿根性草本でススキの近緑種である。
七世紀頃にアラブ人が地中海沿岸にもたらし栽培に成功し、ヨーロッパの食生活に新たな味として加えられるようになった。十六世紀に入って新世界の植民地開発以来、次々と世界各地にサトウキビのプランテーションが作られ、十九世紀になるとキューバを中心とした西インド諸島が主産地となり、東洋ではフィリピンのネグロス島がキューバと並び世界の砂糖壺と呼ばれるようになったのである。あまり土壌を選ばず土壌塩分にも比較的強いことから年々栽培面積が増え、全世界の生産量はこの三十年間はオーバー気味で、粗糖の価格も五分の一にダウンしているのが現状である。従って国家的産業としてサトウキビ栽培に依存していた国々は経済的破綻に追い込まれている。キューバではロシアの経済援助もストップしたダブルパンチで、アメリカ合衆国への不法労働者の流出が続いている。一方、一握りの大農園主が経営しているフィリピンのネグロス島では、サトウキビを切り出す労働者に金を支払えず、多くの労働者は家族を食べさせることができないまま幼い者から毎年何千人かの餓死者が出ている。
南西諸島で作られているいわゆる国内のサトウキビ畑は通常一反歩当たり年間十五万円~十六万円の収益があり、これは実に国際価格の五倍に当たるわけで、その差額の十二万円~十三万円は国のフォロー、つまり皆さんの税金によってカサ上げしている仕組みとなっている。そう考えてみると日本人は世界で一番高い砂糖を舐めているというわけである。
笠利半島北部には数十町歩の面積の長島植物園がある。ここは観光植物園ではなく鹿児島に本社のある、熱帯亜熱帯植物の育成農園で、多肉ユーフォルビア、サボテン、アガベ、パンダヌス、ソテツ、ガジュマルなどのフィクスが栽培されている。
皆があまりにも熱心に見学をするもので、ついつい時間を忘れ、空腹に時計を見ると一時になる。昼食を予約した「バシャ山」に急ぐ。ここは太平洋に面した海岸のレストランだが、沖合いに発達した珊瑚礁と明神崎に守られ、おだやかな砂浜が広がり、所々に火成岩礁が点在する風光明媚な場所で、マリンスポーツに興じる若者の宿泊客も多い。昼食はこの地方の名物「鶏飯」。これは飯に鶏肉、玉子焼、野菜、海藻などの具を載せ、鶏ガラスープをかけて食べるブッカケご飯のことである。「バシャ山」の名は、芭蕉山が転じたものである。すなわちリュウキュウイトバショウ(Musa balbisiana)は古来より繊維を採り芭蕉布を織るのに用いられ、琉球王朝時代には薩摩、明国に貢物として納めていた歴史があり、バショウ山(バシャ山)は当時としては大層な財産であった。奄美地方では単に「バシャヤマ」というとあまりよい意味で使われる言葉ではないので間違っても若い女性に対しては禁句である。すなわちバショウヤマ(財産)を付けなければ嫁のもらい手がないことから「バシャヤマ」の言葉が生まれたのである。
食事が終わりグンバイヒルガオが咲くバシャヤマの海岸を後にし、笠利湾の最奥部の赤尾木に向かう。ここは太古の時代に隕石が落ちた場所といわれ、浜が真円形に囲まれている場所で、何年か前の大学の調査で立証され、今でも隕石の破片を誰々が拾ったという噂が絶えない。内陸部の畑や林の中に数本、コンクリートの塔(高さ3~40m)が建っている。ここに太平洋戦争当時、日本軍通信隊の基地があって、その電波塔の残りである。米軍の爆撃を受けほとんどの物が倒されて、残っているものも機銃の跡などで倒壊寸前の危険な状態である。
西郷南州
竜郷町役場を右折すると西郷南州流請地跡である。安政五年(一八五八年)錦江湾に入水した西郷隆盛は運良く助かり、島津二十七代斉興の計らいで幕府には死亡届を出し、奄美に潜居を命じられた。安政六年から文久二年の三年間現地の愛加那と結婚して一男二女をもうけ、長男菊次郎はその後、西郷本家に引き取られ京都市長を二期務めた。
西郷を乗せた砂糖運搬船の福徳丸を係留したといわれる松が阿丹崎に残っており、地元では西郷松と呼ばれている。ここに五年前にはなかった茶店ができ、特産の大島紬や土産物も売っている。この松はリュウキュウマツ(Pinus luchuensis)で、幹肌は黒松に似、葉は赤松のように柔らかい。数百年を経たこの古木にはイヌセッコク、ヒトツバ、マメヅタなどの着生植物が小さなコロニーを形成している。マツ属は日本にはアカマツ、クロマツ、ヒメコマツ、チョウセンゴヨウ、ハイマツほか6種、数変種がある。
さて旧西郷邸は防風林にフクギで囲まれ、門の左側にホルトノキの古木、カンヒザクラ、タイワンチク、カキなどが植栽されている。奄美大島は気温が高いので内地で見るカキも植えられているのだが、ろくな実は成らず食用に適さず、同様に、クリやリンゴも育たない。
庭の中央には一段高くして碑文がある。明治三十一年に建立されたもので勝安房(海舟)筆によるものである。
碑文
天の此人に大任をくださむとするや、まず其しん志をくるしめ其身を空えすと、まことなる哉、此言、唯友人西郷に於て是を見る、今年君の謫居せられし旧所に碑石を設くるの挙あり、島民我が一言を需む我卒然としてこれを誌し以てこれに応ず
明治二九年晩夏 勝安房
西郷隆盛(一八二七~一八七七年)は明治政府の陸軍大将兼参議を務め、明治六年(一八九三年)征韓の議容れられず退官、明治十年、私学校党に擁せられて挙兵(西南戦争)、敗れて城山にて自刃した。
東京の上野の山の銅像は、討幕の時彼の力で江戸城を無血開城、江戸の街を戦火に遭わせなかった功績をたたえ建てられたものである。竜郷町の北端は今井崎、東シナ海に向いた山の斜面にはソテツとリュウキュウイトバショウの大群落がある。秋名付近は太陽を崇拝する原始的宗教が残っており、神との仲介役としてノロという巫女がおり、今でも祭事を司っている。太陽崇拝は、かつては日本国中にあった。神話の世界では天照大神がおり、また、元旦の初日の出を拝む習慣は今でも残っている。日本国中にある大、小の大島と名づけられている島々は、もともとは大きい島の意味でなく太陽と会う島(あふ島)、つまり日の出方向にある島という意味で、島も含めて古い地名にあるアワ、アワ島は「あふ→あわ」から転じたものだとの説もある。
隣村の芦花部は、一七〇〇年代にポルトガル船が難破し、打ち上げられた数人の船員が住みついた所といわれる。現地の人々と混血がすすみ、美人が多いところといわれ、美人伝説の碑がある。
奄美空港から、島都の名瀬市に向かうルートは三通りあり、竜郷町から本茶峠越えが昔からのルートであったが、峠道はカーブが多く、崖から転落したり、道が細いために車同士の交通事故が多く、七年程前に新たなバイパスができて峠をトンネルで抜けられるようになって時間も三十~四十分と、約二十~三十分の短縮で行けるようになった。今はバイパスルートがメインになり旧道を走る車はほとんどない。もう一本のルートはわれわれが辿っている東シナ海ルートで、距離にしておよそ50km、直行しても一時間半ほどかかる。一番遠いルートを選んだ訳は、東シナ海に面した海岸は景勝の地が多いこと、点在する小村は昔ながらのたたずまいを残し、植生も豊かであるからである。五年前にインドアグリーン協会のカレンダー撮影で訪れた時、海岸から約100m沖に高さ約20mの三角錐の岩礁があり、その頂上付近に自然に生えたソテツ、ハマビワ、ススキが見事な風景を作り出し、あまりのすばらしさにカメラのシャッターを切るのを忘れたくらいであった。注意深く車を進めると、ありました例の岩礁が!姿は前回見たままだが、道幅を広げるので少々海が埋め立てられ、海から抜き出た観は多少なくなったが、何だか昔の仲間に会えたようで感無量……有良村の山道は、昔筆者が白花のノアサガオ(Pharbitis indica Hagiwara=Ipomoea indica)の群落を発見した場所だったが、今回はその白花を確認できなかった。アサガオについては筆者が学生時代に在籍した遺伝育種研究室の萩原時雄教授をついつい思い出してしまう。教授はアサガオの遺伝研究では世界の第一人者で、英国の科学誌『ネイチャー』に初めてアサガオの染色体地図を発表、そのメカニズムなどを掲載した。その後も、リンケージ、帯化現象の研究など、九十二年の人生を総てアサガオに捧げた人である。道は名瀬湾を見おろせる大熊峠、ここからは名瀬の街と港が一望の下に見渡せる。湾の入口には田端義夫が「島育ち」に歌った沖の立神が、出船入船の航海無事を守っている。立神はこの地方の各々港の入口にある岩礁に海の神を祭ったものである。
名瀬市の奄美セントラルホテルに着いたのは四時過ぎであったが、この時期まだ陽は高い。もっとも東京にくらべて、日没は約四十分遅く、午後七時半頃となる。夕食まで間があり、久しぶりの市内を散策する。中央アーケード街は昔ながらのにぎわいで商売も繁盛している様子である。アーケード街を抜けて永田橋、末広市場をのぞくことにした。
ここは市民の台所とも呼ばれ、鮮魚、野菜、惣菜などが売られ、観光客相手の貝細工、黒砂糖、ハブ皮製品など五~六坪の小商店が軒を連ね、夕方になると買物の人々でごった返す場所である。筆者が奄美に来た時は必ず寄るお決まりの市場で海藻のアオサ、カツオブシ、塩辛、などの土産を買った。この日は休みなのかどうも人気が少なく、近づくにつれて閉めている商店が目立つ。全店の三分の二は閉まっており、わずかに鮮魚、惣菜、乾物を売る店が営業している。聞いてみると近所に大型のスーパーが何軒もでき、客を奪われて商売にならず、廃業する店が現在でも後を断たないとのことである。
何処も同じ秋の夕暮れ!時の流れは誠に無情である。地方の風物詩ともいえる市場の存在も風前の灯である。まあ、嘆いても始まらず、乾物屋でアオサ、黒糖、グミを買う。アオサは岩礁に生える緑藻類で干して汁の実や、あぶって海苔と同じように使用する。沖縄のは奄美の物より小ぶりで軟らかく、「アーサ汁」として飯の付汁として有名である。黒砂糖はこの地方では喜界島の物が最上とされ、奄美産の黒物に比べて亜麻色をしている。グミとあるのは海岸に生えるマルバグミ(Elaeagnus macrophylla)の枝を細かく切り乾燥させたもので束で売られている。当地ではグビギと呼ばれ、風邪を引いた時の熱さましの特効薬で、これを煎汁にして飲めば40度の熱も一発で平熱に戻るという。民間薬として今でも重宝されている。野菜類ではかつてリュウキュウツワブキ(Farfugium japonicum var. luchuense)が茹でて束にされ水に晒されていたが、もうその姿はない。葉裏が紫のスイゼンジナ(Gynura bicolor)、肉が紫のムラサキイモ(サツマイモ)などは今回見ることができなかった。食生活でも都会と同じ、キャベツやレタスが主流となり地方色豊かな物も次第に消えて行く運命にある。現在蔬菜や果樹、穀物の地方品種は絶滅の危機にあり、その保護が叫ばれている。
食用トウモロコシは全世界ハニーバンタム(ハニーコーン)に統一されつつあり、各国独自の品種が駆逐されている。日本でもかつてはクロモチトウモロコシやシロモチなどがあったがもう市場にその姿を求めることはできない。ダイコンに至っては青首一辺倒、根の長いニンジンはなく、そのうちゴボウの根も短くなるかもしれない。
七月七日、午前十時二十分ホテル発、国道五十八号線にて奄美第二の都市古仁屋に向かう。名瀬市を南下し、朝戸峠というかつては難所と呼ばれたカーブ続きの峠越えも数年前にトンネルが完成し、8.7kmの距離もあっという間に通過するという。五年程こなかったらすっかり道がよくなっている。
ヒカゲヘゴとモダマ
名瀬市から22kmの朝戸峠を越え、さらに13.2km行ったところが三太郎峠である。トンネルが作られているが、それを避け旧道に入る。旧道はすれ違う車もなく、まったく忘れ去られた道で林業関係者が利用する程度であり、管理は住用村が行なっている。嶮しい山が迫り、谷間にはヒカゲヘゴ(Sphaeropteris lepifera)の群落が各所にある。ヒカゲヘゴは琉球列島に生える木生シダの総称として呼ばれる場合もある。その中でも雄大であることから単に種名として用いられている。別名ヒヨケヘゴ、モリヘゴ、ニワヘゴなどがあり、葉痕に逆さマルハチのマークがあるマルハチと同属の木生シダである。日本に自生する木生シダは、小笠原諸島のマルハチ、エダウチムニンヘゴ(南硫黄島)、メヘゴ、八丈島と琉球列島のフモトヘゴ、琉球列島のヒカゲヘゴ、オニヘゴ、チャボヘゴである。かつて九州本土や紀伊半島まで分布していたフモトヘゴが一番耐寒性があり、北限のヘゴである。
また、三太郎峠はモダマ(Entada phaseoloides)の大群落があり、全山モダマの蔓で覆われた様子は圧巻である。マレー半島やオーストラリア(クイーンズランド)でモダマの自生を見たことがあるが、いずれも小群落でこれほどの大群落は他に類を見ない。
モダマはマメ科植物の中で最も爽が大きく、長さ1mを超えるものもあり、遠目には山腹に、昨年実って茶褐色に変色した莢が確認できた。今年の物は葉の緑と同化して探すのが困難である。遠く街道際の林までその分布を広げ、旧道で人も車も通行が極端に減った状態では密林が伐採されない限り、植生範囲の広がることが考えられる。モダマの和名は、海流で漂着した豆を九州、四国の海岸で拾った者が、原植物が遠く離れているため解らず、恐らく海藻(モ)が作った種子(玉)に違いないと考えたのが、藻玉の和名の由来であろう。豆は大きい物は通常直径10cm近くになるが、マレー半島のタマンネゲラ国立公園では径12cmのものを数個拾ったこともある。表皮は硬く、江戸時代には珍品として中をくり抜いて細工物、特にキザミタバコ入れに作り人気が高かった。
三太郎峠を下ると西仲間、この急坂も整備され道幅も広く改装され、坂の途中にマングローブを一望できるパーキングエリアが作られている。
北限のマングローブ
住用川、役勝川が作ったデルタ地帯に最北限といわれるマングローブ原生林が形成されている。オヒルギ(Bruguiera gymnorhiza)、メヒルギ(Kandelia rheedii)中心のマングローブでサキシマスオウノキも混生している。オヒルギは高温の熱帯地では高さも10m以上になるが、ここでは低温のため五m程度しかならない。オヒルギと呼ばれるヒルギは世界にベニガクヒルギ、シロバナヒルギ、オバナオヒルギなどがある。
マングローブは和名紅樹林といい中国名がそのまま和名となったものである。
マングローブは吃水域に、つまり汐の干満で海になったり干潟になる地域に形式される林のことでヒルギ科、ヤシ科、ハマザクロ科、アオギリ科などの植物から成っている。生体比重(生きている時の重さ)は水より重くほとんどが沈木である。ヒルギの仲間は樹皮にタンニンを20~30%含み、これが紅色染料に使われていたため紅樹林の名がある。材は緻密で杭木、枕木、薪炭として利用し、幼根は野菜として食べる地方もある。ヒルギは胎生種子で親木にぶら下がっている時から発芽している。住用村のマングローブはかつて昭和天皇、平成天皇(皇太子時代)、イギリスの自然保護団体の名誉総裁のエジンバラ公も訪れている。
リュウキュウアユとケンムン
役勝川はリュウキュウアユが最後まで生き残った川で、現在天然記念物に指定され、保護されている。このアユは本土のアユに比べ小ぶりで、昔は沖縄本島まで分布していたが、沖縄では数十年前に絶滅、現在は役勝川のアユが移殖され徐々にではあるがその数は増えているという。アユの種保護上公表されているのは役勝川ということになっているが、内証の話、住用川ほか数河川にも生息している。アユは極東のアユ科の魚類で日本列島では北海道南部までと、朝鮮半島、日本海に面したアジア大陸のハバロフスクあたりまで分布しているといわれている。今や日本列島でほとんど絶滅した、河童のモデルになったニホンカワウソはアユを主食としていたらしく、生息範囲はアユの分布と一緒で、ここ奄美でもケンムンという河童伝説が残っている。ケンムンは夕暮れから出没し、住拠はうっそうと茂るガジュマルの気根の中にあり、近くを通る人間を化かすといわれている。ガジュマルを切るとケンムンの崇りがあるとも信じられ、この地方の老人は現在でもガジュマルを屋敷内に植えたり、枝を切ることをタブーにしている。
尤もガジュマルは墓や拝所に植えられることが多く、自生では谷間の湿った陰気臭い場所が多いので、夕暮になれば人気は全くなく、そんな場所でガサガサ正体不明の動物が俳徊していれば、気が動転するのも無理からぬこと。また、イタチ科の動物は安全圏に入ると、後足のみで立ち上がる性質を持ち、河べりで生息しているので、人間に類似した姿の河童伝説となったのである。
国道五十八号の急坂を下り左折すると昭和天皇が観察されたお立ち台があるはずだが、ここも新しくコンクリートの展望台が広く作られ、さらに生物観察が手近でできるよう改造されていた。干潮時で少しマングローブの中に入ることができる。
カニは種類も多く、愛嬌者のトビハゼも見られ、メヒルギは花が満開であった。ここには山間(ヤンマ)と呼ぶ集落があり、その入口に、今年の秋にオープンする原野農芸博物館、奄美アイランド植物園の工事の真最中で、博物館の方はほぼでき上がり、仮営業中であった。切符を買い中に入ると農機具やら、土器、美術品の展示物など、かなり大規模な博物館であり、魚類のコーナーもある。
加計呂麻島に渡る
この日は奄美第二の都市古仁屋から十時五十分発のフェリーで加計呂麻島に渡る予定である。急ぎ国道五十八号を古仁屋へ、約26.5kmの道のりで…港に着いたのは出発二十分前であった。あたふたとフェリーに乗り込み一段落。瀬戸内と呼ばれる大島と加計呂麻島の海峡は鏡のごとしで、台風時には船舶の避難場所となる。古くは日露戦争当時の連合艦隊の投描地でもあった。
瀬戸内は世界でも初めてといわれているクロマグロの大規模養殖に取り組んでおり、入江を網で仕切った養殖面積は世界一といわれている。五年から十年後、クロマグロの養殖が成功すればわれわれの口に入るかもしれない。クロマグロの一本釣りは黒潮の流れる青森が北限で、一本数百kgの物を年間五本も釣れば(至難のワザ)、生計が成り立つという。もっとも、クロマグロ(ホンマグロ)数百kg物は一本三百万円。われわれが得意がって身銭を切り上トロのニギリを食べても、一個数百円ではトンボといわれるビンナガマグロか、キハダマグロのトロでクロマグロではない。少なくともホンマグロのトロを食べるということは清水の舞台から飛び下りる覚悟で一切れ(5cm×3cm)千円以上は出さなければならない。現在、大西洋、地中海、太平洋と、日本の食通といわれる人々の舌を満足させるため種々のマグロは絶滅の危機にさらされている。
瀬戸内は海水温が高く波が静かなこともあり、数十年前より黒真珠やクルマエビ、ガサミの養殖も盛んである。フェリーは約三十分で対岸の瀬相に着岸する。
加計呂麻島は本島と寄り添う形で東西に長い島、面積は77km2、周囲148km。古くは文治元年(一一八五年)の壇の浦合戦で敗れた平家の落武者平資盛が逃れてきた場所で、これより南に落人伝説の話はない。平資盛は清盛の孫で壇の浦では大将、歴史上は討死にとなっているのだが、これはあくまで中央政府となった源氏側の歴史であって、いつの世も政府の歴史として残るものは都合の良い解決でまとめ上げられたものである。ついでに、壇の浦で死んだと思われている安徳天皇、平有盛、行盛が遁れ住み着いた伝説が琉球列島には数多く残っており、祭られた神社や墓もある。資盛の祭られている神社はこの島の諸鈍にあり、ちなみに資盛は桓武天皇から十二代に当たる末孫である。どうも歴史の話に力が入り、本来の植物旅行記が逸脱する嫌がある。反省して……於斉に向かう。
捨てられた日本一のガジュマル
ここには日本一といわれるガジュマル(Ficus microcarpa)の大木(樹齢八百年)があるのだが。確か海に面した墓地の真ん中に鎮座しているはず。探して墓地は見つかったもののその姿はない!
近くの婦人に訪ねると、一九九二年の十九号台風で倒され、撤去されたとのことだった。天然記念物に匹敵する古木が、何と輪切りにされて捨てられた!これ以上の憤怒はない!
沖縄の名護市にあるヒンプンガジュマルよりさらに大きく、枝張りは直径約60mはある。正に日本一の一本立ち(気根の無い)ガジュマルであった。筆者が七年前に来た時(二度目)目通りは悠に12mを超えていた。
辺境にあって、人知れず朽ち去っていくのも自然の姿なのかもしれない。
気を取り直し諸鈍のデイコ並木(Erythrina variegata var. orientalis)を見に行く。デイコはインド原生の落葉高木で、沖縄では県花に指定されているマメ科植物である。斑入り品(var. variegata)は黄斑が美しく、熱帯各地では並木、庭園樹として利用されている。材は刀の鞘、玩具、箱などに利用されているが、鮮紅色の花、三出葉、ダイナミックな樹形とがあいまって、観賞用樹としての利用度が高い。諸鈍の海岸にはおよそ、五十から六十本の並木があり、恐らく樹齢は二百年以上である。土地の八十歳以上の老婆に聞いても、子供の頃から太さは変わらないし、何時植えられたのか親に聞いても解らなかったとのことであった。
以前に筆者が来た時、道をへだてた向かいの木の太枝(径約50cm)が中空で接号した、珍しい合体木があったが台風で飛ばされたか今は見ることができなかった。自然保護が叫ばれて久しいが、地方、特に過疎地域にまで行政は目が行き届かず、人知れず朽ち行く樹木が多くある。これも自然のなす業かもしれない。昼食は西阿室の町長、福島善衛さんが公民館を提供してくれ、地元の料理も用意され、大変な遇しを受けた。
彼は訪島するたびにわれわれをご自宅で歓迎してくれる。無論、奄美・国直の江崎さんの手配があるものの、氏の人柄の良さにはまったく敬服の至りである。フェリーの時刻もあり、お礼もそこそこに帰途につく。
加計呂麻島はかつて第二次大戦中、沖縄陥落ののち奄美上陸作戦を予想した軍部が、ベニヤ板でできたモーターボートの先端に爆薬を仕掛けて敵艦に体当たりする特攻兵器「震洋」の秘密基地を置いた場所である。兵士の一人島尾敏雄はその手記『出撃の命令未だなし」を書き上げ、今日死ぬか明日死ぬかの人間の心の葛藤を赤裸々に表現している。
古仁屋に戻り、観光船で生きたサンゴの群体見学を済まし、今日の宿泊地、大和村国直に向かう。今日は湯湾岳(島の最高峰694m)に登る案もあったが、強行軍のためパスし、湯湾から芦検へ、さらに今里と経由して東シナ海に出る。奄美の南部は磯遊びや海水浴に適したビーチが無数にあり、とにかく日本人が少なく、もし誰かが泳いでいたら完全にその人だけのプライベート・ビーチである。
名音の村を通り過ぎるとトンネルがある。これを抜けると名高い切り立った断崖(およそ高さ100m)が海に落ち、入りくんで大きな海蝕洞穴を形成している。人影はなく、通る車もないまったくの景勝の海岸である。ガイド役の浜田氏が言うには傍らに生える草を茹でて野菜や薬草として食べるとのことで、よく見ると未だ抽苔(花柄が上がること)していないが明らかにトウダイグサの仲間であった。タカトウダイ(Euphorbia pekinensis)は根を大戟(タイゲキ)と呼び、漢方では利尿、通経薬とするが毒性が強いので使用には最大の注意が必要である。成分はeuphorbinが含まれている。トウダイグサ科の鉢物としてミドリサンゴ(E. tirucalli)があるが、この植物の原生地東アフリカでは長いこと薬用として、風邪、咳、頭痛などに用いられ黒焼きにした物が常用されていた。WHO(世界保健機関)の調査で、この地方に小児ガンが異常に多い原因がこのミドリサンゴであることが解ったのは十数年前の話で、トウダイグサ科の植物は発ガン物質も含んでいるので、彼には「食べない方が良いでしょう」と注意を促した。長いドライブであったが、午後六時三十分、この日の宿泊地国直に到着した。
大和村の国直は二十から三十戸の小村で東シナ海に面し、良く晴れた日には70km西に浮かぶ、トカラ列島南端の横当島を見ることができる。
ビロウの原生地横当島
トカラ列島は霧島火山帯上に形成された火山列島で、横当島は十四年前(一九八六年七月)に田丸さん以下仲間約十人と現地参加六人で瀬渡船をチャーターしてキャンプを張ったことがあった。熔岩のガラ山でできているこの島は全くの無人島で、二つの噴火口をもち、長さ4kmの瓢箪形をしている。隣の上の根島を含め、現役バリバリの活火山である。海岸そのものが温泉で真水は一滴もない。なぜこの島を訪れたかというと、この島は全山ビロウ(Livistona chinensis)で覆われ、ビロウ原生の震源地であることと、ウラ若き女性の幽霊が出るとの噂があったことで、両方の魅力で酔狂者が集まったわけである。情報、ガイド役には地元大熊の元カツオ船乗組員の積さんがなってくれた。彼には十数年前に台風で船ごとこの島に打ち上げられ、一週間後救助されるという経験があり、その話ではビロウの他に人間の背丈ほどあるツワブキ、おそらく丈が1.5m以上になるオオツワブキ(Farfugium japonicum var. giganteum)が、林のごとく群生していたとのことであった。一九八六年七月十八日、台風が南方洋上にあり、天気晴朗なれどウネリが高い海を高速船で突っ走った。途中波頭に押し上げられて船のスクリューがカラ回りすることも何度かあったが無事に到着した。南からの波を避けて北側に接岸したが、重体の船酔者が現地の人を含めて3~4人出て、しばらくは人事不省の態。水や食糧の陸揚げ、テント張り、食事の仕度をする間、先発隊は野生の山羊を今夜のオカズにと追っかけているが相手は四つ足、ガレ場の急坂ではとても手が出せない。筆者は積さんと共同で追い込み漁にかかる。刺し網を広げ魚を網に追い込むのである。熱い温泉を避けた沖合いから浮きつ、潜りつ、網に向かう。潜って驚いたのは海ヘビがやたらに多いこと。ブルーと黒のダンダラ紋様、長さ30~40cm、俗にいうエラブウナギである。ブダイやベラに混じって六匹も網に掛かった。魚は刺身にして酢味噌で食べ、ヘビは黒焼きを強精薬として売っているので焚火で焼いて食べることとなった。肉はピーナッツのような臭いがあって硬かったが、何でも経験とばかりに胃におさめた。
翌朝、いよいよ植生探査。お目当てのビロウは何処にも生えておらず、荒涼としたガレ場には赤錆びたウインチが数台放棄されている。
なおビロウを求めてスリバチ山(高さ約500m)に登る。海から直接の高度500mはかなりきつい。山頂は噴火口でお鉢になっているがすり鉢状ではなく、円筒形で垂直に約250m落ち込み、火口底に森が形成され、周囲のガケにはわずかばかりのビロウ群落がへばり付くように生えている。
崩れやすい礫の崖なのでロープを使っても下るのは不可能である。本島に戻って人伝に聞いた話では、十数年前、ある業者がこの島を管理する十島村からビロウ採取の権利を安く買い、ユンボやウインチを持ち込み何十万本ものビロウを根こそぎ持ち去ったとのことであった。奄美で仮植えされたビロウは荒掘りのため三分の一は枯れたという。また田丸さんの説明ではこれらのビロウは全国にバラ散かれ、一部は八丈島にも来たのではないかとのことであった。
オオツワブキが絶滅したのはおそらく山羊の食害によるものと考えられる。残る植物はハマヒサカキ、ギーマ(スノキ属)、リュウキュウマツ、マッコウ(ハリツルマサキ)、カヤなどで、風衝植生でわずかに残されているのに過ぎなかった。
フクギの話
さて、話を国直に戻す。この村は奄美で最もフクギ(Garcinia subelliptica)が多い所で、防風林にされている。フクギの厚い葉は風に強く、三年前(一九九二年)の一九号台風(於斉の日本一のガジュマルが倒れた台風)では風速70mを記録したが、防風林に囲まれた家屋に被害はなかった。フクギは樹皮から黄色染料(フクゲチン)が採れ、テーチギと呼ばれるシャリンバイの赤褐色染料、シイノキの樹皮からとれる黒灰色染料とともに大島紬の染料として用いられている。大島紬は奄美の特産で、夜になればあちこちの村で機を織る音が聞こえたものだが、現在ではその音も少なくなっている。十年程前までは女性でも精を込めて機を織れば一ヶ月五十万円位の収入があった。しかし韓国からの輸入物に押され、現在ではその三分の一にもならない。民宿国直荘は十数年来の筆者の定宿で女将は浦田時子さん。今夜の宴会には得意の踊を披露して下さり、島歌の名人も呼ばれ、黒糖酒、山羊汁に皆の食が進む。民宿に二十三名全員が泊るのはとても無理なので、浜に設置したテント二基や、隣のコーラル観葉園さんなどに分宿した。なかには縁台で寝る者もあり、外で寝てもこの気温では風邪の心配はない。だが夜半過ぎのスコールにはたまらず、テントや民宿に駆け込む。この夜は蒸し暑く夜中、アカショウビンの鳴き声が絶えなかった。こんな時は浜に海ガメが産卵に上がることが多い。
ちょうど七月七日の七夕の夜で、八日午前二時過ぎ頃に皆を起こしにかかった。日没後二から三時間は、上空はまだ太陽光の影響で星がよく見えないからで、門灯や街路灯を離れ真黒の闇で見る天空はじつに見事であった。天の川の蛇行した帯、オリオン、カシオペアなど一面星だらけであり、流星も一分毎に流れ、正に天空のドラマである。
翌朝、浜では嘘の言えない海ガメが上陸したあのキャタピラ跡があった。産卵場所を調べたが卵がない。察するところ皆が騒いでいたので産卵せずに沖に戻ったらしい。海ガメは一夏に同じ浜に数回上陸して、一回に120個程の卵を産む行動を繰り返す。卵を筆者も食べたことがあるが、ピンポン玉の内部全部が黄身のようなもので、茄でても固まらない。この点鳩の卵と一緒で、鳩のは黄身は固まるが白身は白濁するだけで固まらない。この日は午後一時まで息抜きのため浜にて自由行動となる。泳ぐ者あり、潜る者あり、ウニは腰程の深さの辺りでいくらでも拾えたがまだ漁の解禁前で身が小さい。
ひさびさに、沖合いにでてシュノーケルを付けて潜ってみる。ビックリしたのは珊瑚が回復し、原色の黄、紫、緑などのソフトコーラルが繁殖してテーブルサンゴ、ツノサンゴといった立派な群体を形成していることだった。というのは国直の海岸は二十数年前オニヒトデにやられ、正にサンゴの死体累々の浜だったからである。その当時のサンゴが波に砕け、白砂を形成しているのである。改めて逞しい自然の回復力を感じさせる一場面である。午後はコーラル観葉園さんの圃場を見学し、所用で一日早く帰る喜芳園(下田さん)、川崎グリーンハウス(鹿島さん)の両氏を送り出し、名瀬セントラルホテルに向かう途中大浜海浜公園に立ち寄る。ここは地元の海水浴場でよく整備されている。この時期、土曜日ということもあり、かなりの人出である。ここは以前に、日本インドアグリーン協会のカレンダー(自然植生シリーズ第一号)で、東シナ海に沈む夕陽をバックにビロウのシルエットを撮ったなつかしい場所である。
金作原原生林
七月九日、今回の旅の最終日で、十八時十分発の便で、東京に帰る日であるが、それまで間があり、名瀬市の南にある金作原原生林にて植物探査をする。ここは手つかずの原生林が残された場所で、名瀬市、大和村、住用村にまたがった南部の原生林に続き、名瀬市の水道を賄う水源涵養林にもなっている。ヘゴが茂る谷間の道はいつしか細い砂利道となり、山はいよいよ深くなる。森林を形成する木はスダジイ(Castanopsis sieboldii)が占有率一位で30%。スダジイは地方によりイタジイあるいはシイと呼ばれ、琉球列島のものを亜種とみなし、オキナワジイと呼ぶことがある。原生林中の高木でかなり目立つ白い花を咲かせているものがある。イジュ(Schima wallichii)である。ツバキ科の常緑高木でチャの花を二回り大きくしたような花を一斉に咲かせている様子はすばらしい。イジュは何年か前に採取して、試験的に東京の戸外で鉢植えを越冬させたが何ともなく、十分耐寒性があるので花の少ない夏の庭木に仕立てれば必ずヒットすると思われた。この仲間は日本では他に小笠原の父島にムニンヒメツバキがある。一九八九年三月、ボルネオのキナバル山頂付近で、同属のS. brevifoliaが開花していたが、花は白色でイジュの花と酷似していた。川岸や林道際に高さ3~4mの低木アカミズキ(Wendlandia formosana)がネズミモチ状の花を盛んに咲かせている。聞けばこの木をこの島で秘密裡に集めている業者がおり、かなりの高価で買い取ってくれるとのことで、山仕事をする者達には内緒でブームになっている。何でも乳酸菌飲料で名高いY社が、この木から抗ガン剤を精製するために隠し農場を作り、原木集めに躍起になっているとの噂である。
前年にも同様な事件があった。カエデ科のメグスリノキ(Acer nikoense)である。この木の名前のように樹皮から薬が採れ、目薬を始めとしてガンや痛風などに効くといわれ、そのため立木の皮が生きたまま剥がされて、東北地方の成木は絶滅の危機に晒されているというニュースはまだ耳新しい。
奄美発全世界の植物
シマウリカエデ(Acer insulare)は奄美大島、徳之島の固有種で、若枝が緑、葉は対生して細長い心臓形で、時には庭園樹として使われている落葉中木である。ここ金作原では見られなかったが、奄美の固有種で全世界に園芸植物としてヒットしたものがある。島の最高峰、湯湾岳に原生するアマミヒイラギモチ(Ilex dimorphophylla)である。通常クリスマスシーズンになると「ミニヒイラギ」として園芸店で売られるものでヒイラギとは名ばかりのモチノキ科の植物である。同様にイングリッシュホーリー、チャイニーズホーリーを総じてセイヨウヒイラギと呼んでいるが、これも厳密には適切な名前とは言いがたい。ホーリーは英名でモチノキ属の総称である。節分の時、イワシの頭と一緒に鬼を払うヒイラギはOsmanthusつまりモクセイ科の植物のことで、葉に鋭い刺があることが似ているので混同されているのである。素人であればともかく、玄人はそれだけの認識は持たねばならない。
ヒイラギも葉に刺のあるモチノキ科の植物も成木になると刺が消失して全縁となる。人間も年を取ると刺がなくなり丸くなるのと似ている。湯湾岳は数回登ったが自生種は採り尽くされてその姿を見ることはできなかった。だが里の村落には庭園樹としてかなりの古木を見ることができる。前にも触れたが、成木になると全く感じの違う例として、奄美大島にも多く見られるフィクス・プミラ(オオイタビ)がある。園芸的に作られているのはその幼態である。
原生林ではリュウキュウマツは少なく、アカメガシワ、イイギリ、フカノキ、ハリギリ、モクタチバナ、サクラツツジ、ゴンズイ、ショウベンノキ、タラノキ、ヒメシャラなど樹種も豊富である。谷間の湿った場所は、各種木生シダやワラビ、オシダ、チャセンシダ、シノブ、リュウビンタイ科などあたかも生きた標本室である(木生シダの群落はかつて「ゴジラ対モスラ」を撮影した場所で、モスラのマユがザ・ピーナッツに守られたシーンはここである)。樹上にオオタニワタリ(Asplenium antiquum)の着生などがあり、初めて目にする仲間も多かった。
水辺以外の林床はよく日光が通り植物もまばらで、アリドオシ、ボチョウジなどの低木、クマタケラン、オオカンアオイなど、ラン科では小形で地味な地生種が多く、葉に白い網目のあるシュスランの仲間のカゴメラン(Goodyera hachijoensis var. matsumurana)の自生が確認できた。シュスランといえば、一般的に茶黒色に赤い縦スジが入った葉のホンコンシュスラン(Ludisia discolor)を指すが、日本の元祖シュスラン(Goodyera velutina)は中肋(葉の中央の葉脈)に一条の白色がある。地生種で姿が似ているが、ラン科でも属が違うので混同しない注意が必要である。
なお、海岸にはタコノキの仲間のアダン(Pandanus odoratissimus)が多く見られる。
林道際にこの地方ではついぞ見かけたことがないセリ科のミツバが自生していた。ミツバは東アジアでも、中国と日本でのみ野菜として栽培されているもの。日本では全国に分布しているとのことだが、奄美での発見は筆者としては初めてであった。早速摘み取り、一束にしてビニール袋に入れる。今日の昼食はウナ重を予約してあり、恐らくキモ吸いが出るはずでその中に入れる算段である。奄美では八百屋でミツバを見かけたことはなく、ミツバを食べる習慣はないので、ウナギ屋ではミツバの取り合いの騒ぎとなった。
リュウキュウイノシシとハブ
山の主といえば何といってもリュウキュウイノシシである。日本では内地にホンドイノシシがおり、体長150cm、体重100kg以上にもなり、福島県まで分布している。リュウキュウイノシシは体が小さく、大きくても40kgしかならない。イノシシは南方系の動物で全世界に分布しているが、寒冷地には生息していない。内地では静岡県がイノシシやイノブタ料理で名高いが、野生のものの年間捕獲数は、鹿児島県が筆頭で約7500頭、そのほとんどが奄美大島である。恐らく山には大島の人口以上のイノシシが生息していると思われる。猟期は十一月~二月一杯までで、その時期は町場の肉屋さんの店頭には山羊肉にとって代わり猪肉が並ぶ。現在トラバサミによる捕獲は禁止されているが(内緒でやっているようだ)、罠をかけた山は人間でも危険で、山の入口や目立つ場所には罠を掛けた印に黄や赤の布がぶら下げられている。この点は、水田にパラチオンなどの有害な農薬を散布をした時、その印に赤や白の旗を立てるのと同じである。
大島には九種のヘビが生息する。毒蛇はハブ、ヒメハブ、ハイ、ヒャン、ガラスヒバァの五種。無毒はアカマタ、アオヘビ、アマミタカチホヘビ、メクラヘビの四種。何といっても横綱はハブ(Trimeresurus flavoviridis)で、血清が開発されるまで毎年数人の人が咬まれ死んでいる。今まで捕獲された最大級は2m27cm、大きいものは猫を飲み込むという。ネズミやカエルを好んで食べ、時にはネズミを追い人家まで侵入してくることもあり悲劇が起こる。たとえば「貧乏ゆえ、電気もなく夜は家族が藁に入って寝ていたが、その中にハブがいて、次々と咬まれ一家全滅したこと」などの話が伝わっている。運よく死ななくても毒で壊疸になり、手足を切断した人など、ハブの話は尽きない。元来ハブは夜行性で日中は穴に入っていたり、暑い日は谷川の石の上で涼んでいたりするもので、筆者も野生のハブには出会ったことがない。尤もそういう所を避けて歩いているわけだが、奄美ではたった一度だけコブラ科の毒蛇ヒャンに遭遇したことがあった。アメ色と黒の真田紐のような長さ30cmばかりのヘビだが、谷川でのことで、付近の石を投げて殺したことがある。真夏の谷川はヘビが涼む場所であり、以後は注意をしている。ハブはマムシと異なり、秋になると実を求めて集まる小鳥を狙い、木にも登る。秋の原生林では実の成る木の上にも注意が必要となる。
ハブは熱源体に向かって攻撃するのでハブ捕りは長グツ、手袋、首には布を巻き、体温を放出しない格好で行なう。生ハブは大小にかかわらず役所から一匹五千円の褒賞金がでるので、梅雨明けの蒸した晩は小遣いを稼ぐ絶好の機会でもある。ところで山で蛇に出会った時、毒蛇か無毒の蛇か見分ける方法を伝授しておきたい。山で出会った蛇に「おまえは毒を持っているか」と先ず聞くことだ。相手が「Yes I have」と答えれば間違いなくそいつは毒蛇である。
- 初出掲載紙:(社)日本インドア・グリーン協会発行『グリーン・ニュース』
- 奄美大島植生誌No.1(グリーン・ニュース、一九九五年十一月号)
- 奄美大島植生誌No.2(グリーン・ニュース、一九九六年一月号)
- 奄美大島植生誌No.3(グリーン・ニュース、一九九五年三月号)
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